2022年3月31日木曜日

起源とされる「戸越上水」についての考察

 ■品川用水の…

起源についての、通説といえるのは、

  • 後の肥後新田藩主で、熊本藩主細川綱利の弟の細川若狭守利重(5000石)が、寛文2(1662)年にこの付近の地とともに拝領した現在の戸越公園周辺に屋敷を設けるにあたって*同3(1663)年に玉川上水を境村(現・武蔵野市境)で分水していた仙川用水路の新川宿から分水して戸越上水を開鑿した
  • 戸越上水は寛文6(1666)年に閉止されたが、翌7(1667)年7月、品川領宿村の者らが、旱損御救いの為の用水として、旧戸越上水の古堀と用水を賜りたい旨と幕府に出願されていたものが許可され、同9(1669)年、品川用水が幕府の費用で旧水路を拡張して開鑿され、以後品川領の9宿村に沃いだ
* この経過については、
 参照

 なお、戸越御屋敷惣御差図(寛文11(1671)年)

永青文庫・蔵
寛文9(1669)年の品川用水開鑿後
延宝6(1678)年に西半分が焼失前
の総面積10万坪のピークの状態を示す

 

 

というもので、この説は、当の品川用水普通水利組合自身も

品川用水沿革史編纂委員長 倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊

の p.17 で「品川用水明細書」に依拠して、採るところであるし、

 組合村の一つだった大井町も

大井町・編「大井町史」同町/S07・刊 の p.309で

「抑々この用水の起源は、品川領は従来よりの天水場にて、各村旱魃に苦しみたる爲め、領内村々名主年寄より用水堀の開設に付其の筋へ嘆願すること四十餘年に及び、寛文七年初めで川水引入れ方が順済となつたのである。これより以前寛文二年に、品川領戸越、蛇窪兩村入會にて細川越中守が抱屋敷(現在の戸越農園の處と云ふ)四萬五千坪を拝領し、同三年より四年に亙り、玉川上水を境新田より分水する仙川用水を、野川村にて分水することゝし、水路を掘り、庭内に引入れた。其後寛文六年に及び、細川家にて水不用となりたる爲め、この水を用水に使用したき旨を出願し、同七年に至り品川傅馬宿並に宿附定助郷の村々救済として許可されたのである。然るにこの小堀は殆ど水無く同九年六月に至り官費を以て此の小堀を廣張することになり、江戸西紺屋町尾張屋金兵衛外四人にて請負ひ之を開鑿した。」

とあるとおり、同様の見解を示している。

■これに対する…

異説としては

 上記の、戸越上水の存在を否定する、たとえば

品川用水については、肥後熊本藩の細川家の抱屋敷(現、戸越公園と国文学研究資料館付近)の庭の泉水用に引いたものを、拡張して用水にしたとの説もありますが、水路によって潰れる用地のことを考えると、一大名家に、幕府がこのような大工事を許可するのは不自然ではないでしょうか。

品川区教育委員会・編「品川用水 『溜池から用水へ』」同委員会/平成6年3月・刊 p.10

という見解や、そのいわば出典と思われる、品川区史通史篇を引用する

高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(二)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ」駿台史學, 56:205-231
(同「中世関東水田の研究-絵図と地図にみる村落の歴史と景観-」日本経済評論社/1997・刊〔p.89〕)
 
p.206の

元文二年(一六八二)に細川綱利が戸越屋敷を賜わり、同十一年ごろまでに泉池を中心に殿舎を造営した。この泉池は、「戸越公園川」のきわめて浅い谷頭に湧出する自然の湧水池群である。「品川用水明細書」などが「寛文三年(一六六三)から四年にかけて武州多摩郡野川村から水路を掘って仙川用水を分水し庭内に引き入れた」とするが、『品川区史』が説くように、いかに大大名とはいえ、一外様大名の「細川家が抱屋敷の庭内の泉池用のためだけにわざわざ仙川用水を引いてくることは考えられないし、またそのような事を幕府が許可すると(3)は思えない」。品川用水の細川抱屋敷泉池への導水起源説は、はなはだしい妄想にすぎず、同邸の泉池は台地上の浅い谷頭に源をもつ湧水池群であったのである。

 (3)『品川区史通史編』上 近世編五「産業」 (松尾美恵子執筆)



がある。

■この異説…

たしかに、真に受けてしまいそうなのだか…

 その本家筋にあたる細川越中守は、戸越上水の開鑿年とされる寛文3〔1663〕年に数年先立つ万治年間〔1658-1660年〕に、荏原郡下北澤村で玉川上水から分水し、高輪の中屋敷までの「細川上水」を開鑿している。

 この細川上水については、史料が乏しい戸越上水と違って、その後幕府が、これに並行する形で開鑿して、最終的に北は赤羽橋、南は北品川宿まで水を供給していた三田上水と共に、貞享上水図*、正徳上水図などの地図に表記されているので、これが実在したことに疑う余地はないし、この細川上水は、天領、旗本領、寺社〔増上寺御霊屋、根生院〕領を通過しているのである。

*貞享上水図のうち、細川・三田両上水の抜粋と思われる絵図は、国会図書館に
 と題して蔵書されている。
 
集成のうえ、画像修正したもの


 
 

 














 加えて、細川上水、戸越上水ともに玉川上水の分水であり、前者について、幕府の承認を得ていることは明白であって「外様大名だから幕府の許可を得られない」**との根拠は全く成立し得ないのである。

**そもそも…

外様大名であることは、極めて数少ない親藩でも、小藩が多い譜代でもないというだけの話で、まして、細川家は、織田、豊臣に仕えた後、関ケ原において、通説では、細川綱利の軍勢が黒田長政軍と共に石田光成軍の陣屋の正面・最前線に布陣して一進一退を繰り返し、最終的にこれを撃破しているのであるから、いわば東軍大名中の東軍大名といってもよいうえ、いわば支流の傍流ではあるが、清和源氏足利の血統に属し、元々の家格は(本流の喜連川家ほどでは無いにせよ)非常に高い。

むしろ、逆に、

「二代将軍秀忠のころ、細川忠興が西の丸*の後見人にすすめられ」たと言われており、細川家が、徳川家あるいは幕府から、かなりの信頼を受けていたことが窺われるのである。

〔余談、というより、こちらの話の方が、むしろ初期の江戸府内の水利に関しては本論なのだが…

忠興が「これを断ったところそれを聞いた藤堂和泉守高虎は、明年早々入府してお請けされたらいかがと勧めた。忠興はこれを聞いて、『和泉のたわけ奴、あの江戸の泥水を飲んでおられるものか』といったという(三上参次著『江戸時代史』上巻)〕

以上、堀越正雄「水道の文化史」鹿島出版会/S56・刊 p.16

西の丸=家光?

■そもそも…

外様大名いかんとか家格などは、実はここでは極めて些末な問題にすぎない。

 むしろ、ことは、以下のように、少なくとも中世、おそらくは古代にまで溯る、水利に関する重要な慣習法にかかわる問題なのである。

■幕府評定所の判決例

すなわち、

西崎正「徳川時代に於ける農業水利の権利関係(一)~(三)」国家学会雑誌41巻2,3,4号・ S03?

の(二)同第3号pp.106-107によれば

この時代に於て、或農村が、他の農村に對し、その土地を掘敷地として提供すべきことを交渉した場合に於て、この申込を受けた農村は、之に許諾を與へると否とが全く自由であつたのであるか、或は、之を應諾すべき義務があったものであるか。この疑問に對しては、法規判例が不足してゐるので、明確な解答を與へ得ね。が、自分一個の考へを言へば、他村から井路敷地の借用を申込れた農村は、潰地と為す爲すべき場所や地代總額等、細目の決定に關してこそ、種々異議を唱へ得たであらうが、自村地内を通じで井路の設定を爲すことだけは、特に重大なる支障なき限り、之を承認すべき義務があつたと思料されるのある。彼の下野守掛上總國弓渡村源蔵外二人相手同國横川村忠右衛門外二人用水出入(12)に於て、弓渡村が、無斷で横川村地内に用水路を開盤したにも拘らず、横川村に餘歩あり、且、「用水之儀に候得は」といふ理由で、新規と雖井路を附さすべきものと判示した、裁判官の態度から觀て、自分は右の推定を確實なりと信ずる(註六五)。即ち、理由もなく、他村の要求を拒絶し、自村地内に於ける井路設定を承諾しなかった農村は、必ずや新行爲承認請求の被告となり、裁判上受諾が強制せらるるに至たに違ひないと思考される。

(註六五 この判決要旨は次のとおりである。即ちまづ「立會分繪圖面を以、論所横川村水帳ニ御引合、地詰被遊候處、過半出歩有之候。然者‥‥用水堀筋證跡無之候得とも、用水之儀に候得ば、縦新規ニ候共、井路附させ可申事ニ候」と判じ、次に「自今從弓渡村、井料米横川村江可逡之、且横川村地面出渉有之上ハ右地所之年貢勘定詰ヲ以、不残可差事ニも無之間、今般御吟味之上、牛分之積り、一ヶ年ニ米一斗五升ヅツ年々横川村江部可請取之旨被仰渡」てゐるのである。

同(二)同誌第3号 p107

   なお、

  (12)享保5又は14年

    下野守掛上總國弓渡村源藏外二人相手同國横川村忠衛門外二人用水堀出入

   同(一)同誌第2号 p30 

■つまり…

この出入、つまり紛争は、弓渡村側が、横川村側に無断で水路を開鑿したことから、横川村側が水路の閉止を求めた事案であるが、評定所は、仮に事前に弓渡村側が横川村側に水路開鑿の承諾を求めたが横川村側がこれに応じなかったために紛争になったと仮定しても「用水の儀」なので水路の開鑿を認めたはずの事例であるとして、横川村側の訴えを退けていることになる。

 【補記】

1772-1780当時

弓渡村は、長瀞藩領 133石

横川村は、鶴牧藩領 206石+旗本領 547石

とのこと。

 問題の横川村内の水路の土地が、鶴牧藩領内ならば、弓渡村共々大目付支配の大名の領地・領民間の争いなので、大目付のレベルでも何かの裁決が可能だったかとも思われるが、水路の土地が旗本領内であればこちらは目付支配なので、目付も大目付のいずれかの領地・領民については「支配違い」となるので、結局、幕府の最高政策決定機関であると同時に最高裁判機関でもある評定所が裁決するほかなかったのであろう。

 水利の問題に限らず、これまで見てきたいわば幕府の最高機関の一つである評定所の裁決や勧試した内済(和解)の事案に、結構「下世話」のものが意外に多かったのは、そのような管轄の問題があったためのようである。

■このような…

評定所の判決は、このとき初めていわば考案された論理によるものではなく、少なくとも、鎌倉時代にまで遡る、我国の水利に関する確立された慣習法を前提とするものであることが、

寶月圭吾「中世灌漑史の研究」目黒書店/S25・刊 pp.156-174

の以下の記述からも、了解することができる。

中世末期に於ける駿河の今川氏の法令である「今川かな目録」に拠れば、

一 新井溝 近年相論する事、毎度なり、所詮他人の知行を通す上は、或替地、或は井料勿論也、然は奉行人をたて、速に井溝の分限をはからふへし、奉行人にいたりては、以罰文私なき様に可沙汰也、但自往古井料の渉汰なさ所においては、沙次の限にあらざる也(註一)

とあつて、今川氏は領内の用水争論防止の爲め、井料に開する規定を設け、他領の地内を通つて用水を導く土地は、その代償として、奉行人の監督のもとに替地又は井料を支沸ふべきこと、及び従来かヽるものを支辨する慣習がなかった土地に於ては、その儀に及ぼざなことを明かにしたのである。

又伊達家に於ては、天文五年制定の塵芥集の中に、

一 ようすひのために、つヽみをつくのところに、れん/\のみつまし、人のりやうふん、此つヽみ故にあれ地となる、仍てかの地主いらんにいよふ、其いはれなさにあらす、然者是を相やめへき也、たヽしようすひはぼんみんのたすけ也、人そんまもうにより、是をやんこと、すこふるたみをはこくむたうりにかなはさるもの也、せんするところは、あれつへきふんさひ、かたちやうをとけ、さうたうのねんくを、くたんの地主へはたらかせ、こしらへかたむへま也、(註二)

と説き、濯概の爲に堤防を築造する場合,それに依って荒地となる土地に就いては、その土地の年貢米に相當する米を、堤防築造者より地主へ提供すべきであると規定してゐるがこれも井料の一種と見ることが出來るであらう。

又、すこし後のものであるが、慶長六年五月十七日、前田利長の定書には、左の如き條項がある。

一 用水之事は、昔之水道相絶、於不通は、雖爲知行所、當給人江理、其地如本年貢相當之井料を出、新水道となるべき事、(註三)

即用水路開鑿の必要な時は、誰の所領であつても、その地の給人に断つた上で、掘開くことを許し、その代り堀敷地の本年貢に相当する米を、井料として出すべきことを定めたのである。

かくの如き用水施設の堀敷地代である替地或は井料の支拂は、古くから行はれた慣習であって、今川・伊達・前田等諸氏の領内にて、此時始めて行はれたものではなく、昔から各地に存在したかうした慣習が、此等の諸侯の領内に於て、法文化されたに過ぎないと思はれるのである。

なお、

註 一 今州記五(史籍集覧十三)

  ニ 伊達家文書 一

  三 萬治己前御定書(加賀藩史料一)

   参州岡崎領古文書下にも慶長十五年に出された同様の趣旨の法令が見える。

 以上p.173 

として、建治2(1276)年を始めとする鎌倉・室町時代の実例をいくつか挙げている。

■つまり…

前掲・西崎の結論に従えば

細川家が、戸越用水の経路である、天領、大名(彦根藩)領、旗本領の領主に全く無断で水路のを開鑿したことはさすがに考えにくいので…

前記のとおり、幕府より玉川上水からの引水の許可を得ると同時に

後の、品川用水の開鑿のときと同様に(この手順については、後日「世田谷領への引水と閉止」で触れる予定である)

各領主に水路開鑿の了承方を申し入れ

各領主としては、前記の慣習法上、これを全面的に拒否することはできないので
  • 水路や築堤のために農地などとして利用できなくなる土地(潰地)についての年貢などの金銭や米などによる補償
  • 代替地の提供
これは、細川家には関東地方に領地がなかったと思われるので戸越上水に関しては考えにくい
  • 別ルートへの変更
玉川上水や三田用水などと同様、台地上の高地部分に水路を設ける必要があった戸越上水の場合は、あっても小規模のものに止まると思われる

といった折衝を経て、最終的には、水路の開鑿が可能となったと考える方が理にかなっているといえる。

■先の…

異説は、このような水利に関する慣習法や、細川上水の存在を看過したものと考えるほかない。

 

2022年3月28日月曜日

このブログの目的(附:別ブログの品川用水情報)

 ■品川用水については…

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三田用水研究: 【域外:品川用水】タマデン「桜新町停留所附近」S23ころ 

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 【品川用水】どこから何を、調べたものやら 

東京府志料 巻之六 水利志 中「品川用水」の条 

三田用水研究: 三田用水(附:品川用水)の分水樋 

【品川用水】大井内堀からの分水の素掘暗渠 

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品川用水(と三田用水)の絵地図

【品川用水】船橋の悪水吐口の巡検結果と嘉永5年の盗水現場 

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【品川用水】境分水圦~牟礼村西端までの村絵図

【品川用水】「仙川養水」を考える

【品川用水】「用賀の深堀」を探す

をしてきたのですが、あまりに書くべきことが増え始めたので、新たにこのブログを立ち上げることにしました。