2022年7月15日金曜日

大正中期の品川用水路の植生

 鳥居龍蔵が主宰した「武蔵野會」の機関誌「武蔵野」(原書房/S46・復刻版)に、下記の報告文があるのを見つけた。

伊吹高峻「駒澤村の植物」(雑誌「武蔵野 Vol.2」武蔵野會/T07.10・刊 pp43-46 )

*全文は こちら

 文中、現桜新町~上馬あたりの用水路周囲の植生に触れているので、ここに抜粋することにした。

Photo_20220703233001

*文中"↓"は、引用者が補入した改行部を示す

品川用水も高臺の中央を流れ人工的堀割なるを以て岸高く兩岸僅かに羊歯の數種類あるのみ、又堤防に「にはとこ」の多き事注意すべし又トリアシショウマの白花を総生したるヤブクワンザウの炎ゆるが如き又目を引く岸の兩壁に羊歯類の外ゼニゴケジャゴケ等の膠着したる又スギゴケヘウタンゴケへ等あるも珍物に非ず、↓

用賀停留場…より世田谷に至る道を數丁にして品川用水を渡る、此邊は比較的種類に富み楢〔?〕 等の山林あ〔り〕↓ 

上馬向の臺地…殊に品川用水の畔に至らばヤマノイモヒメドコロヤブカラシ、等あリ又ミゾソバウナギツカミマヽコノシリヌグヒ 等の蓼科キツネノマゴホタルブクロ 、等を得べし、↓

旭橋にて大山街道に出て品川用水の右岸に従て下れば右に桂川水力電気の變壓所あり、 尚進めば 左に龍雲寺を見るに至る、二本松に至る間は畑地と竹林多く、南碑衾村と接する邊は土堤多く又等の山林行樹あり一般に陰濕にしてツボスミレタチツボスミレヒトリシヅカタビラコ等の可憐なる姿を見るべし林地にはキンランギンランオトキリサウカタバミヘビイチゴムラサキケマンヤブエンゴサク〔=ヤマエンゴサク〕、シホデジヤノヒゲスギゴケ等あり又山椒等の灌木あり採取の好適地たり

 

2022年4月11日月曜日

【再掲】「用賀の深堀」を探す

 ■「沿革史」

つまり、ここのブログでは

品川用水沿革史編纂委員長 倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊

を、そのように指すことにしているのだが、その口絵写真中の1枚に

当時の地図のみると、北見橋から桜新町までの用水路については、
両岸に道路のある区間は限られており、この写真は、
北見橋ないし、それよりもその直下の橋上から撮影された可能性が高い

この写真がある。
 発行年でわかるように、戦時中の出版物なので(と、いっても、よくぞ不要ではないが不急の本を出版できたものである)、紙質も悪く、網点も荒いので、不鮮明ではあるが(これでも、渋谷区中央図書館からお借りした原本から、旧式とはいえ業務用のスキャナを使い、その画像を階調がなるべくフラットに分布するように調整している)、「深堀」というキャプションも合わせると、
  • 中央にある白い部分は水路の底の水で、
  • その水路底に向かってほぼ垂直に削ったような堀の側面に
  • 生えている樹木は垂直方向ではなく対岸方向に斜めに伸びて
  • 水路を覆うように茂っている
ようである。

■この深堀の…

位置については、
での、3つの悪水吐樋と同じように「沿革史」の巻末近くの品川用水路現狀視察記」(pp.259-268。以下「視察記」)に多少の手掛かりがあった。

 つまり、そのp.264に

  小田急電鐵線路の踏切を越すと向側は横根部落、今の世田ケ谷五丁目である。踏切の左に千歳船橋驛あり、右敷間に用水の開渠を越す鐵橋がある。水路はこれより再び高い築土手となるが、四町行った民家の傍から低くなつて道路と同じ高さに變る。水路敷は僅かの凹みとなって急には見分け難いが、珍らしいことには洗場の跡などが遺されてゐる。 

 横根を過ぎると用賀の臺地にかかる。一帯の丘陵地は大浪のうねりの如く、北から波及し來るたって多摩川岸に終末を告げてゐるが、水路はこれを切割って横斷しなければ荏原へ出られないのだ。この設計と工事は何百年の昔定めて困苦し努力したことであらう。丘陵横斷の半里あまりの水路は、或は二三丈或は四五丈の濠となってゐる。里俗これを用賀の深堀と呼ぶ。兩側の斜面には竹木繁茂し、堀には流れざる水が滿々と湛えられてゐる。湧水の溜ったものか、過去の用水の殘留か、ともあれ全水路中、最もよく舊觀を存してゐるところである。

 歩き去り歩き來って見る水路の千變萬化、或は高く或は低く或は滅び或は遺る。吾々は茲に用水經營の歴史の縮圖を自賭するが如く萬感なきを得ない。

 横根のはづれより水路は廣大なる陸軍自動車學校に入る 迂回して調布道に出で學校正門前に至る。水路の斜面の雜木よく生育して宛ら並木の如し。學校前より右へ折れる水路上、府道に石橋が架せられてゐる

■このうち…

陸軍自動車學校に、用水路の入る地点

同校前の府道の石橋(北見橋)

については、まず goo map の S22の空中写真へのリンクを上記本文にセットしておいたが、残る問題は、この

・「半里あまり」の長さの

・深さ「或は二三丈或は四五丈」

の「深堀」なるものが、「横根」のどこで始まり、どこまで続いていたのか、

逆にいえば

・「用賀の臺地」なるものがどの範囲にあったのか

ということになる。

■どうやら…

旧水路というより、その脇の標高データをトレースしてみるのが一番効率的なようなので、不慣れというより、まともな目的のために本格的に使うのは全く初めてといえるカシミールを使ってみた。

 登山用などと違って、範囲が狭小なうえ高低差も微小なのでてこずったが、なんとか、いわゆる「見える化」できたのが、下の図である。

「用賀の深堀」説明図
赤色の鎖線が、品川用水路

                    
■かなり…

アバウトな作業だったのだが、見えてきたことは意外に多かった。

たとえば…

1 「玉石擁壁始点」(白矢印)から「玉石擁壁終点」(黄色矢印)の区間

ここには品川用水の「水路跡」というより「水路敷跡」として、最も顕著な遺構が残る

始点

中ごろ1


中ごろ2
建物建築のために一旦撤去した擁壁を
力学的には全く不要なのに、おそらくオリジナルの素材で積みなおしている



終端近く
ここは、素材は異なるが、「玉石積擁壁」を「復元」している






























このあたりは、まだ台地の北端の裾のあたりであることがわかる(お椀を伏せたような形の台地の端を削ったため、擁壁の両端は低く中央は高い状態になる)。

 【補記1】

ここの、玉石積擁壁は、平成14年度に
「玉石垣のある風景」
として、世田谷区の「地域風景資産」に選定されている。

 【補記2】

後記のように、画家・歌人である原田京平1895-1936)の家が、ここの水路の少し南にあったので、この作品

雪 1931-1936

あるいは品川用水路を描いているのではないかと考え該当の場所を探してはいるのだが、みつからない。

もっとも、1930年代前半の用水路沿いとしては拓け過ぎているかもしれない。

2 上図の赤矢印から東が、旧・帝国陸軍自動車學校の敷地である

「視察記」にある、水路が「廣大なる陸軍自動車學校に入る」位置は「ここ」ということになる
現在の桜丘中学校の西端にあたる場所で、後述の「ザリガニ取り」の写真からみて、「深堀」は、このあたりから始まっていたようである。

3 赤矢印のやや東。「現・桜」の下あたりの地色がやや薄くなっている

ここは、自動車學校の訓練用のオーバル・コースのあった場所で、南側の台地の裾を掘り下げてコースを設けていることがわかる。

ここから下流、水路が、右折して南方向に向かった後、左折して東の青線の北見橋方向に向かっているが、この右左折が旧・自動車學校/現・東京農大の敷地北東にある小さな谷をクリアするためであることが、今回初めてわかった。

4 青矢印の「北見橋」のあたりで、上記3のように東に流れてきた用水は右折している

大まかにいえば、これまで横根地域を流れてきた用水は、用賀地区の馬事公苑の東縁を南に流下することになる。

「用賀の深堀」の語源である「用賀」というのは、今でも先の青矢印から南なのであるが…

用賀村絵図 寛政6年10月
右端が品川用水、中央やや左の|の川が矢沢川
右上の\の道が「登戸道」〔現・世田谷通り〕

下のーの道が「大山道」〔現・玉川通り旧道〕


今回の作業までは「用賀」というのが(少なくとも「横根」よりは)有名な地域名なので、

「深堀」の存在していた場所を、本来の「用賀」地域に限定しないで、いわば「用賀のあたり」という程度に考えていたこと

逆に、地名にこだわって最初から対象範囲を限定してしまうと、これまでの経験上も「大勘違い」をしかねない

図中の「俚俗・ババ池」が存在していたこと

このいわゆる「溜池〔溜井〕」は、品川用水開鑿時に設けれた分水に起因し、元禄2年にそれが閉鎖された後も用水からの漏水あるいは浸透水で維持されていたと考えられていた(東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 第41図 (p.74の 次ページ)) ので、

  • 「深堀」と名付けられるほど深い位置に水路があるのなら、そこに分水口(原則として開閉できるものである必要があるし、そこからババ池までの水路を作るのも難しい)を設け、しかもそれを管理するのは容易ではないし
  • しかも、ババ池のさらに西の用水寄りに、「シン田丁トビ地」つまり、南方にある後の世田谷新町村のおそらく水田が存在していた
彦根藩「世田谷領二十ヶ村繪圖」文化3(1806)年抜粋

と考えられる(「世田谷領二十ヶ村絵図」)ので、わざわざ遠くからここにちっぽけな耕地を設ける以上は、コメの収穫が期待できる、用水からの、漏水程度ではなく分水があったと考えるほかなかった

【参照】弦巻村の八幡社は下北澤村の野屋敷稲荷の類例か?: 平成作庭記+α  

ことから、「深堀」が、本来の意味での「用賀」地域にあったという発想はなかった、というより、本来の「用賀」にはなかったのではないかと考えていたのである。

しかし、今回の作図結果をみると、この「ババ池」のある地域に限っては、標高の高低を色の濃淡で示す色味(以下「標高色」という)からみると、(自動車學校/東京農大北東のそれのように)東方向から蛇崩川の源流に該る小さな谷地が用賀台地に食い込んでいたことがわかり、ここさえ築堤で用水路を通すことを前提にすれば、「用賀」地域に「深堀」があって、何の矛盾もないことがわかった。

しかも、用水路のある大部分の場所の標高色は、先の横根地域に比べても、はるかに濃厚であり、先の「ババ池」上流部の限られた地域を例外とすれば、「用賀の深堀」が存在してたらしい主要な地域は、文字通りの用賀地域だったということになる。

東京都世田谷区「せたがやの歴史」同区/S51・刊 pp.362-363掲載の「旧品川用水に沿って 昭和十六年」との表題のイラストマップによれば、北見橋やや南から陸軍衛生材料廠(現・陸上自衛隊用賀駐屯地)北までの区間は「この辺両岸樹木うっそうとして深い谷をなす」と書かれている。

上記「せたがやの歴史」 p.373抜粋

ここからも「深堀」のピークはこの区域だったと判断できる。

5 作図結果からみて「用賀の深堀」は、ほぼ現・桜新町の旧・玉川通り近くに達している

 「沿革史」口絵写真中

前記のとおり、当時の地図のみると、北見橋から桜新町までの用水路については、
両岸に道路のある区間は限られている。

との写真からみても、用水路は、旧・玉川通りこと旧・大山街道近くまで、そこそこの深さがあったようである(但し、正面奥に見えるのは少なくとも大山道の100メートルほど北の橋であろうが、橋は水面からかなりの高さにある)。


6 旧・大山街道の手前で水路は左折しているが、そこから東方向は低い谷地である

要するに、今の桜新町の旧・玉川通りは、おそらく呑川源流の自然河川が形成した谷地だったことが図から読み取れる*

 *桜新町=呑川源流ということに今回初めて気付いた。なお、この谷地から南側の地域は、水路跡の宝庫である 

横根からここまで用賀台地があるために、深堀を掘削する苦労はあっただろうが、その一方で、理想的な勾配で水位を維持しながら用水を流下させることができたとも言える。
ここから(船橋のそれほど高いものではないとはいえ)後述の「新町の築堤」を設けて蛇崩川右岸の台地上に水路を疎通させる必要が生じたこともわかる。

このあたりの、見立て(基本設計)は、かなり難易度が高いと思われる。

■桜丘中学校…

に関しては今回の作業中に思い出した「ザリガニ取り」の写真がある。

 確か、画家・歌人である原田京平の旧居探しのお手伝いをさせていただいた(品川用水路近く桜丘4丁目にあった)関係

世田谷文学館友の会会報 第56号 p.8 参照

で、世田谷文学館友の会の幾田充代氏から、品川用水関係の資料として頂戴したものと記憶しているが

「NPO世田谷桜丘まちづくり」発行の「桜丘まちづくりニュース NO12」H24/07・刊https://npo-skr.sakura.ne.jp/New_HP/data/profile_pdf/news_pdf/s-news12.pdf
のp.4
千歳通りにはかつて川(品川用水)が流れていました 品川用水の思い出

と題する、昭和10年生まれで桜丘中学校の第1回生の田中芳徳氏執筆の記事であるが、全文は上記リンク先でお読みいただくとして、旧水路のS20年代初期の状況について、ここに引用させていただくと…
…この川は水が流れていないのである。何と水溜りばかりである。池のように点々としているのだ。川の両岸は堤防のようになっており、川に入るためには、そこを上がって再び降り川底に至るのである。岸辺には所々に喬木が生い、堤防には笹が生い茂っていた。いや川底にも生い茂っていた。…川底には木の枝が折り重なっていた。灌漑用水とは到底言えぬ有様であった。

前段は「視察記」p.264あたりの

兩側の斜面には竹木繁茂し、堀には流れざる水が満々と湛えられてゐる。湧水の溜ったものか、過去の用水の殘留か、ともあれ全水路中、最もよく舊觀を存してゐるところである。
とあるのと、それから10年も経っていないので当然だが、同じような状況だったことがわかるし、さらに有難いのは、記事中に掲載されている、記事のために同氏が提供した写真である。

 原典が小サイズなので、ピントの面でやや不鮮明なのはやむを得ないとして、階調は十分に豊富で、冒頭の「沿革史」の口絵写真よりもはるかに、通水停止後の深堀の様子を知ることができるので、引用させていただくことにした。

「NPO世田谷桜丘まちづくり」発行「桜丘まちづくりニュース NO12」H24/07・刊 p.4
田中芳徳「千歳通りにはかつて川(品川用水)が流れていました 品川用水の思い出」挿絵写真より


 もっとも、本文の内容からみて、桜丘中学校からそう遠くには離れていない場所だろうが、画面中の中学生の身長から推して、掘の深さはせいぜい1丈(=10尺=3メートル)強程度なので、通常の白堀(開渠)から深堀に移行し始めたような場所なのだろう。

【追補】

■この「深堀」が…

もともと、どのような深さだったのかだったのか知りたくなったので、
東京都品川区「品川区史 続資料編(一)」同区/S51・刊
中に何か史料がないか探してみたところ

九三 寛文九年六月~宝永七年五月 品川用水諸書留
「品川用水仕様帳」〔pp.584~605〕

があって、その冒頭近くに掲載されている

元禄三庚午五月十四日付け
「品川領用水堀御普請仕様帳」〔p.587~590〕

に、元禄初期に、官費(御普請)で行われた、品川用水の普請の記録があった。

■もっとも…

その内容を読んでみると、どうもこれは、普請の作業量(人工〔にんく〕)などを幕府に報告する文書のように思われ、「幅を何尺広げ」「深さを何尺掘り込んだ」という記録が多くて、
「普請の結果、幅何間、深さ何間の水路ができた」
という最終形が分かりにくい。

ただ、幸いなことに、当の横根村の字「台」なる場所での、延長650間(≒1.2キロメートル)の区間の普請についての、以下のような記録があった〔p.588〕。

一 長六百五拾間 古深九尺
         広ケ六尺
         古敷六尺
         堀込八尺
         新敷四尺 横根村台之内両方広ケ堀可申候

此所御普請仕様掘込ならし八尺之内ならし六尺五寸埋り上之分壱尺五寸先年之堀敷方新規ニ掘込可申候、堀口之広ケ様深壱間ニ付三尺之積り広ケ堀底ゟ五尺上南方ニ横三尺ヘ犬走を付ケ堀端両方古揚土取除横九尺之道を付新揚土ヲ道之外ヘ揚可申候

ここに「ならし」というのは「平均して」という意味らしいことまではわかったものの、そのほかの注記をどう解釈するのか、結論は出せておらず、掘の深さについても

本来の用水路の深さ「古深9尺」から

・そこから、9尺の堀が6尺5寸埋まってしまった上端より「先年」1尺5寸掘削した状態から「八尺」「堀込」したとすると、水路の深さは、-9+6.5-1.5-8=-12尺≒3.6m

・本来の深さ9尺を基準に、そこから「八尺」「掘込」したとすれば、-9-8=-17尺≒5.1m

のどちらかということになる。

 作業量を示そうとしているとすると、前者の方が適正な解釈ということになるので、一応、そちらに従って作図してみると下図のようになった。



 こうやってみると、先の仕様からみて、
・もともと水路底の標高は前後の水路のそれに規定されるので、
・そこに4尺幅の水路底を設け、
・その両端からの傾斜角と犬走の高さと幅は仕様に従うことになるし、
・そこからの高さ(深さ)は地表面の標高に従うほかないので、
これが「ならし」つまり平均的な状態を示していることも併せ考えると、どちらの解釈でも、わずか5尺程度の差では「全く大勢に影響がない」ことがわかった。

■もっとも…

同じ仕様書の、世田ヶ谷「新町端ゟ上馬引沢村境迄」の320間の区間(p.389)では、やはり「ならし」で、古深4尺、堀込3尺に加え、(敷4尺)高2尺の土手を築いている*ため、土手上端から水路底までの深さは合計すると9尺。それと較べると、横根のは「深堀」の方で、そのために、川浚いや閉塞物の除去などの水路の管理の便宜のために、他の場所には見当たらない「犬走」が必要になったのではなかろうか。

ここは、上述の「新町の築堤」であり、別ブログの
 に、写真・地図付きで解説を載せておいた。

 
【追記】普段は、ほぼ書くことのない「単なる感想文」だが、全く期待もしていなかった結果が、
    あまりにあっさりとでてしまったことに「びっくりした」ので、ご参考まで

今回、まったく不慣れなカシミールだったが、試行錯誤しながらの1時間ほどで、それまで、全く想定も期待もしていなかった事柄まで目の当たりにすることができた。

もっとも、1時間で目の当たりといっても「自分の脳内でわかるレベル」までの話で、それを、上の平面図のように「他人様にもわかってもらえるだろうというレベル」にまで、このソフトだけで仕上げようとすれば、どれだけ時間がかかるか見当も付かなかったし、できなかったかもしれない。

それがともかくも可能となったのは、カシミールからは「脳内ではOK」という段階の画像を取り出しておいて、使い慣れた、Photoshop Element と Power Point で加工したからである。

カシミールは、これだけをフルに使いこなすのは難しいだろうが、上のような手順を併用することで、今後とも極めて有用なツールになってくれそうである。 

もう一つ、つくづく感じるのが「史料が勝因」ということである。

今重宝しているのは品川区史資料編と続資料編(一)~(三)。

もともとは三田用水関係の史料のつもりで、古書店だと結構な値段が付いているが、ネットオークションにリーズナブルな価格で出ていたのを入手したもので、今では、品川用水関係の記述にポストイットを貼りまくりの「オイラン状態」になっている。

 

【再掲】「仙川養水」を考える

 ■品川歴史館の…

企画展「品川用水」のパンフレット裏側に掲載されている「品川用水・三田用水 普通水利組合沿革の図」(以下「沿革図」)を眺めていて、未知の分水があるのに気が付いた。

境村の玉川上水からの取水圦から最初の分水である、「上仙川村/中仙川村/金子村/大町村/組合用水」と注記された分水(青矢印)は、現在でも「仙川用水」と呼ばれたり、あるいは「入間川用水」とも呼ばれる、よく知られている分水だが、そのすぐ下流にやや小ぶりな分水(赤矢印)が描かれている。

2022/02/18 撮影
青矢印の「上仙川村…組合用水」のすぐ下流に
「野川村々内/仙川用水口」と注記された分水(赤矢印)がある














 すでにその位置が特定できていた「下仙川村悪水吐口」

 【再掲】品川用水と三田用水の絵地図  参照

よりも上流にあるので、品川用水全体の中で、かなり上流部の分水といえる。

 ただ、パンフレットの画像では、注記がほとんど判読不可能だったので、前掲写真のとおり企画展で現物を確認することにしたのである。

■その前にまずは…

文献調査というわけで、

品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)

を読むと、以下の記述から、この分水の存在は確認できる。

今日品川用水本流となってゐる取入口より野川分水口迄の水路は、當初は仙川養水に続してゐたものであり従ってその開創は一段古いものである」p.17

(官費伏替の場所以外の他に)全く組合自費の普請箇處があった。上仙川分水*野川村分水口…が夫である。上仙川と野川の分水口は府中領の上仙川村・中仙川村・大町村・金子村使用の仙川用水の爲め存在するもので、前者は上仙川村字稲荷前に内法四寸四方・長三尺の圦樋、後者は野川村字北裏耕地に内法二寸四方・長六尺の圦樋が夫々設けられた。元來、仙川用水は品川用水の開創以前よりあったもので、境取入口より此處までは當初其の水路であった。従って品川用水は最初は此處から分水したものである。」p.52

 さらに、以下の記述から、分水の名称が判明する前に、その位置は、ほぼピンポイントで割り出すことができた。

〔正田飛行機〕工場の南裏大字新川に出ると、再び用水路は現はれ、民家の裏口に至って半ば掃溜化してゐる。其處に仙川用水の分水口がある。昔は新川分水口と云ひ、非常に嚴重に約定管理された處である。混凝土造りの樋口があり、今日の品川用水は此處迄通水されて仙川方面へ流れて行くのである。本流水路は此處で無雜作に並べられた砂俵に堰止められ断水されて仕舞ふ。

 新川の十字路を東へ折れて道路に沿ひ行く用水路は、これより全く水路敷のみとなる。國民學校の手前にある分水口**も敷石が崩れ、注意されないと見過す程荒廢してしまった。」(p.261)

*ただし、上掲の「沿革図」の、 上仙川分水口には官費工事の場所を示す「御普請所」と注記されている。

【補正】

**国会図書館のデジタル・ライブラリに

帝国市町村地図刊行会 編「東京府北多摩郡三鷹村土地宝典」帝国市町村地図刊行会/S14/刊

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186058

 があったので、そのp.94とp.98で確認したところ、國民學校の「手前」というのは誤りで「向こう」とするのが正しいことが判明した。

 この「國民學校」は、現在も「三鷹市立第一小学校」として存続している。そのため、ほぼピンポイントで位置を特定できるのである。

 【追記】

昭和22年の空中写真では、

現役だった入間川養水の水路は明瞭に読み取れる

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.34.18.452N35.40.44.975/zoom/12/?data=showa-22

旧・仙川養水の水路は学校周辺には見当たらないが、丸沼近くでは明瞭に読み取れる。  

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.34.23.961N35.40.33.316/zoom/11/?data=showa-22 

■ところで…

この「沿革史」の口絵写真。
















キャプションだけでは、上仙川、野川のどちらの分水口のそれなのかが判別できなかったのであるが、前記の本文と対照すると、下記のように解釈できるので「新川分水」の写真のようである。

『視察記』中の、新川分水の記述と整合するようである
 













 何本か立っている黒い杭状のものは、下図のような、水路側面の護岸用の板を支持していた杭の名残と思われる
M13 海軍による三田用水別所坂上水路補強工事地面

 ■ここまで…

特定できた情報などを地図に落とすと

2022/03/19改訂版


以上のようになるが、注目に値するのが、この野川分水口からの水の行方である。

 ベースにしているのが米国陸軍のAMSマップなので少しわかりにくいが、前記「土地宝典」の図(いわゆる公図を編集したもの。以下「宝典図」)では、明らかにこの水は「河川としての仙川」の源流部の丸沼(下図中央やや右)の少し上流部に落ちていることがわかる。



 なお、仙川の(かつての)水源は、地図中にある丸池と言われているのであるが、地形図で等高線を追うと、そこから北西方向に細流が削ったとみられる浅い川路があるし、昭和20年代半ばに開鑿された現在の仙川の上流部も、この川路にほぼ沿っている。

【追記】

丸沼は、上記空中写真と同時期のS22ころまでは残っていたらしい

「三鷹まるごと博物館」→「昔の写真を見る」
https://ecomuse.jp/historical-photos/
から「新川1」を選択

■つまるところ…

この分水が、旧・仙川養水と呼ばれたのは、当初は文字通り「河川としての仙川」に水を供給するための分水だったからだろう。

 その後、入間川養水の方が主力となった*後も、それを含めて、仙川用水とも呼ばれるようになったのは、単に入間川養水が上仙川村・中仙川村を灌漑するからではなく、あくまで、起源が「仙川という川のための用水」だったからではなかろうか。

*沿革図によれば
  上仙川分水口は、水積144坪(=平方寸)
  野川分水口 は、水積  10坪(同上)

 このこのあたり、三田上水→三田用水の「三田」の語源と通底しているようにも思われる。

【追記】

東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊 p.57 に

旧新川村新川宿 (…)で2筋に別れ,西南流する水路は入間川養水,東流するのが品川用水である。品川用水のできるまでは,この分岐点からやや 東南直距離凡そ700mの所にある勝淵神社前の丸池に水路が通じ,仙川養水となっていたのであるが,品川用水ができるとこの養水路は廃止されたものである。

と、されているが、「沿革図」と「宝典図」によれば、品川用水と仙川養水は、前者の開鑿後、というより、公図上、いわゆる青線・青道として水路が記載されていることからみて、いかにに早くとも地券交付のために公図が作成された明治初期までは、品川用水と共存していたことが疑いないのである。


【再掲】境分水圦~牟礼村西端までの村絵図

 ■東京都公文書館の…

デジタルアーカイブスに

上下蓮雀村井口新田一ノ宮村野崎村図

なる、これらの村絵図の集成図があるのを見つけた。

全体図




■よくみると…

右側の3葉に、玉川上水と、同上水の境村にあったの品川用水への分水口や、そこからの牟礼村西端までの流路が描かれている。

 現代の地図の図法からみると東西が逆、しかも東西の並び順が順不同なので、見やすいように、3葉を切り離し、それぞれ180度転回したものを、西から東に向かって並べてみることにした。

■最西端




■中央





■最東端







■やはり…

こうした方がわかりやすい。

図中の2筋の「江戸道」は、上(北)が現連雀通り、下が人見街道と思われるが、前者の古称がまだ見つけられない。

【参照】

周辺の地形が立体図でわかる有難いサイトを見つけた

三鷹市牟礼に下末吉面相当の残丘が!: 東京の高低差を行く。 (seesaa.net)

いつか、本格的に役立つのは間違いない。

【追記】

武蔵野町三鷹村番地入明細図

境の分水口から、下流は世田谷区との境界まで、精細な地図でトレースすることができる。


【再掲】「品川用水・三田用水 普通水利組合沿革之圖」の文字解読作業

■オリジナルが…

安政5(1858)年に作られ、その昭和4(1929)年の写しとされるこの絵地図



であるが、なぜか、三田用水(上部)と品川用水(下部)とが1枚の図に合成されている。

これらは、

  • どちらも玉川上水の分水
  • 共に流末が、目黒川を挟んで南北正対する南北品川宿の位置

という点では共通しているともいえなくもないが…

  • 取水圦が、下北澤村と境村と大きく離れ、当然流程も8.3Kmと24.0Km* と大きく異なる

*三田用水については、白金猿町(現・都営地下鉄高輪台駅付近)を終端とみてまず間違ないが、品川用水については「大井の掛渡井」北詰(現・東京都品川区中延4丁目27番南東隅附近)と一応言われており
品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)p.268)、沿革図を見ても玉川上水からの取水圦から水路がほぼ同じ幅で描かれているのがそこまでなのでその通りかとは思うが、公式記録は未確認

(1)品川町役場「品川町史・中巻」同/S7・刊(以下「町史・中」)

 によれば、元禄4年の「品川領用水堀御普請仕様帳」(pp.403-408)に

 境村元樋ゟ大井村用水掛渡井下馬込街道迄

  間数壹萬三千八百九拾貳間 

 とある由(p.407)。これを換算すると、25.283Kmとなる。

(2)前掲「沿革史」p.259

 によれば、「昭和二年公図に基づいて求積した」結果が

 「六里十八町四十間一分

 とされている。これを換算すると、25.598Kmである。

 

  • 構成する組合村も、両者で共通するのは、目黒川右岸に品川用水によって灌漑される飛地や入会地があった北品川宿**だけ***である。
** 御府内場末往還其外沿革圖書. 拾六下 p.5
北品川宿の農地(入会地を含む)に赤いサイドラインを付した
各区画の周囲には、文字通り縦横に品川用水の水路が走っている

*** 三田用水の組合村だった大崎村が品川用水組合に加わったのは明治9年以降(「沿革史」pp.78-80)

であり、何の目的で、さして利便性が向上するわけではなく、実用上も取扱いが面倒な、このような合成図を作ったのかは不明。

【追記】 

 この図の、右下隅の記述を解読して、やや「見えて」きたことがある。

時計回りに90度転回

昭和四己巳年五月七日写

     洋々楼文庫

 昭和四己(ママ)年五月二十二日写

     三田用水普通水利組合

と読める。

 しかし、「沿革図」が作成された昭和4年には

品川区立品川歴史館・編「品川歴史館資料目録 ―三田用水普通水利組合文書―」品川区教育委員会/H09・刊

のリスト「(1)用水路絵図」(pp.1-8)をみると

近代期入ってから作成された測量絵図が

・品川用水については

 明治13年 〔図1-16〕

 明治16年 〔図17-32〕

 不詳*   〔図64-74〕*世田谷区成立前

 の3系統

・三田用水についても

 明治44年 〔図33-64〕

がすでに制作されている。

 つまり、この沿革図は、これが制作された昭和4年という時期には、たとえば水路管理用などの実用上の機能は失われているうえ、ほぼ、品川用水も、三田用水も、農業用水としての機能を失っていた時期であることを考えあわせると、おそらくは、品川区(当時)の人々の発案で、記念あるいは史料としてとりまとめたものと想像していた。

 そして、図の 左上に

「用水路調査用トシテ大井町内

 堀普通水利組合會議員

 倉本彦五郎氏ニ給與ス

     昭和五年六月

とあるのを発見。

「恵澤潤洽碑」建立記念写真集 中
「建設委員 昭和8年3月31日」から


 



この倉本彦五郎なる人物は、後に、

昭和8年建立の「恵澤潤洽碑」の建設委員

昭和18年発行の「品川用水沿革史」の 編集委員長

を務めているが、品川用水普通水利組合の役員なので当然同用水を引用している農家の出身だろうし、

交詢社「日本紳士録」をトレースすると

大井銀行取締役(T10版)
麹町銀行取締役(S02版)
區會議員/園藝業(S12版)

を経ていることがわかる。

また、徳富蘇峰、東山魁夷などとも文通のある文化人でもあったようである。

■上部の「三田用水」絵図

こちらは、いわば「既製品」

東京都渋谷区「新修渋谷区史・上」同区/S41・刊
pp.520-521












■下部の「品川用水」絵図

当初は鮮明な画像が入手できていなかったので、2022/02/18に
品川歴史館の企画展に展示された現物も含めて確認した。

見てのとおり「翻字」というほどシンドイ作業ではないのだが、漢字の下に小さく振られた、しかもどれも文脈上有りうる文字が「々」なのか「ゝ」なのか「之」なのか「ノ」なのかといった識別は結構手間取るし「ありそうな文字」なのに、どうしても特定できないものもある。また「候」は定番だが、受動表現のための「被」の略字についてはそうと思い至るまでに時間がかかった。

図の左端の、境村の玉川上水の取水圦から順次

〔境取水圦〕

竹垣三右衛門樣御代官所 

武州多摩郡府中領境村地内

品川用水取圦樋 長五間 内法貳尺五寸四方 一ヶ所

 

是者寛文七未年品川宿御傳馬宿附村々爲御救玉川〓御上水分水被下置候處

用水路所々分水有之品川領村々〓ハ用水行届不申候付其後元禄四年取圦樋並

右用水路之内悪水吐伏越樋者勿論用水路掘廣ゲ掘込用水梜ミ土手共皆御入用

御普請被仰付其後右取入樋之儀享保元年御材木並切組賃鉄物代トモ

御入用被下之伏方一式之儀者組合九ヶ村百姓役以御普請被仰付其後度〃御修複

有之去ル天保四己年御普請奉願上右御入用金九ヶ村ニテ金仕リ永久相保候樣

男柱笠木土抱板共石ニ模様替仕度奉願上候㫖御下知相済則御普請最モ

己来御修複等之節者御入用可被下之旨被仰付罷在候然ㇽ處埋樋之分年来相立

木品惣体朽腐候ニ付ル嘉永ニ酉年御伏替奉願上候處御下知相済願之通

御普請被仰付候故當時相保居用水無難引取御田地永續罷在候事

左岸:  境村地内/御高札

橋:   連雀新田

橋:   前新田/拝嶋街道

右岸:  仙川用水/御高札

右分水: …/御普請所/上仙川村/中仙川村/金子村/大町村/組合用水
     
野川村地内/上仙川組引分樋

右分水: 野川村々内/仙川用水口

     野川村地内/仙川引分樋

左岸:  野川村ノ内/御高札

橋:   仙川村ノ内/拝島街道

橋:  〔無印〕

悪水吐:武州多摩郡下仙川村地内

飯高主計樣御知行所

武州多摩郡仙川村地内

 悪水吐伏越樋 長八間 内法/高八尺/横三尺八寸\一ヶ所

 

是者元樋同断組合御普請所に而 享保十年宝暦十三

御材木切組賃鉄物代御入用被下之御普請被仰付其後

度〃伏替御修複等有之去ル文政十亥年同天保十一午年

御普請被仰付猶嘉永四亥年木品惣体腐朽及大破候ニ付

御普請奉願上候處御下知相済願之通御伏替被仰付

當時相保居候事

右岸: 高札

橋:  烏山村々内/甲州街道
    
甲州道中

左岸: 烏山村ノ内/御高札

    〔なし〕

悪水吐:武州多摩郡粕谷村地内

當御代官所

武州多摩郡粕谷村地内

悪水吐伏越樋 長拾間 内法高三尺五寸/横四尺\一ヶ所

 

是者元樋同所九ヶ村組合御普請所ニ而享保十己年宝暦元未年

御材木切組賃鉄物代共御入用被下之御普請被仰付其後度〃御伏替

御修復有之天保七申年御入用金を組合村々而定〓金仕永久相保候様

石樋ニ模様替奉願上候處御下知相済御普請被仰付年来相保〓候処

申卯年震災ニ而埋樋甲蓋石拾五枚胴折ニ相成難捨置候ニ付御普請

奉願上候処御下知相済石材鉄物代共御入用金被下之則當午年春

御修復御普請被仰付大丈夫ニ皆出来相成候事

橋:  廻リ沢村々内/高井戸道

橋:  廻リ沢村々内/船橋道

左岸: 高札

悪水吐:武州多摩郡船橋村地内

當御代官所

武州多摩郡船橋村地内

悪水吐伏越樋 長八間 内法高貳尺/横貳尺五寸\一ヶ所

 

是者元樋同所御普請所ニ而、享保十己年后御材木切組賃鉄物代共

御入用被下之、尤伏方一式乃儀組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付

其後度〃伏替御修複有之去ル文政九年伏替猶天保十三寅年

大破之節御入用尓組合村而足シ金石樋ニ模様替奉願揚上候処御下知

相済願之通御普請被仰付今ニ至大丈夫ニ相保居候尤向後御修復

等の節御入用被下候㫖是又被仰渡有之候事

橋:  横根村/用賀村/北見村/街道
    
「登戸道」の橋

左岸: 世田ケ谷村新町村々内/御高札

橋:  上馬引沢村ノ内/相州街道
    
「二子道」の橋

橋:  碑文谷村々内/稲毛街道/下馬引沢村

 
 青文字は、下の狩野文庫・蔵「品川用水圖の表記

狩野文庫・蔵
こちらは「サラ」で文字が読めるのがありがたい
末尾の下蛇窪村名主清兵衛さん、印章が「顕夢」という雅号印
代田の齋田家をはじめ村役人には文化人が多いが、おそらくその典型

 この図では、取水圦だけは、妙にリアルに描かれている


■なお…

東京都品川区「品川区史続資料編(一)」同区/S51・刊」pp.635-648
九九 天保九年 幕府幕府勘定所役人、品川用水路御普請所請所見分一件書留
(表紙)「天保九戌年
  御改正ニ付
   用水路御普請所御見分ニ付書上候諸控」

冒頭の、
「天保九戌年
 武州荏原郡品川領九ヶ村組合
  用水路御普請所仕来方書上ヶ帳
    九月 品川領九ヶ村組合」
に「沿革図」とほとんど同じ内容が以下のように記載されている(pp.636-637)のを見つけた。

●境分水樋
一 用水取入樋 長五間 内法弐尺五寸四方

是ハ寛文七未年品川宿御伝馬付村〃爲御救、玉川御上水文水被下置候処、用水路所〃ニ分水有之、組合九ヶ村迄者用水行届不申候ニ付、其後元禄四未年取圦樋右用水路之内悪水吐伏越樋ハ勿論、用水路掘広ケ掘込、用水狭土手共皆御入用ヲ以御普請被仰付、其後右取入樋之儀者享保元申年御材木幷切組賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御修覆等有之、去ル天保四巳年御普請奉願上、右御入用金江九ヶ村ニ而足シ金仕、永久相保候様男柱・笠木・土抱板共石ニ模様替仕度奉願上候処、御下知相済伏替被仰付候、尤巳来御修覆等之節b御入用可被下之旨被仰付候、

 ●下仙川村伏越樋 

右同断用水路之内
飯高弥九郎様御知行所
武州多摩郡下仙川村地内

一 悪水吐伏越底樋 長八間 内法高八尺/横三尺八寸/壱ヶ所

是ハ右同断九ヶ村組合御普請所ニ而 、享保十巳年・宝暦十三末年御材木幷切組ミ賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役ヲ以御普請被仰付、其後度々伏替御修覆等有之、去ル文政十亥年伏替御普請被仰付候、

●粕谷村伏越樋

 右同断用水路ノ内

当代官所
武州多摩郡粕谷村地内
一 悪水吐伏越樋 長拾間 内法高三尺五寸/横四尺 壱ヶ所
是ハ前〃右同断九ヶ村組合御普請所ニ而、享保十巳年・宝暦元末年御材木幷切組賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御普請御修覆等有之、去ル元禄七申年御入用金江組合九ヶ村ニ而足シ金仕、永久相保候様石樋二模様替御願奉申上候処、御下知相済御普請被仰付候、尤以来御修覆等之節者御入用可被下之旨被仰付候、

   ●船橋村伏越樋 

 右同断用水路之内

当代官所
武州多摩郡船橋村地内

一 悪水吐伏越樋 長八間 内法高二尺/横二尺四寸 壱 ヶ所

是ハ前々右同断九ヶ村組合御普請所ニ而、享保十巳年御材木幷ニ切組賃鉄物代共御入用ハ被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御修覆有之、去ル文政九戌年伏替御普請被仰付候、

【余談】こんなことまで…

 下段の品川用水図。図の左端やや下の、「砂川呑水」の分水と「小金井呑水」のそれとの間に、ブロック状に注記が書かれている。
 この種の注記の大半は、あらかた、上記のような名称、仕様、由来、伏替(改修)の履歴なので、何か注記の必要がある位置でもなく、一体何が書かれているのかと、スキャン画像と接写写真を使って読んでみると…

上水両岸五十四町間櫻
百株アリ之元文年間中ヨリ
延享ノ頃迄年々植シメラレシ
所ナリ中ニモ花淡紅ニテ葉色
ウルハシキハ吉野ノ種ナ花白ク
葉色靑キハ常陸国川ノ
種ナリト云フ
(緑色文字は、いわば意読。青色文字は、正字体より略字体に近い表記なのでそれによったものだが、昭和4年の写本なのでオリジナルもそうかは当然不明)

というもの。
 書かれている位置からみれば、いわゆる「小金井桜」を意識した注記だろう。
 2種のうち「吉野ノ種」は、吉野原種のヤマザクラではなく、往時「吉野桜」とのいわゆるブランド名で売られていたといわれる、花が先行する江戸染井育ちのソメイヨシノだろう。「桜川ノ種」の方は、おそらくこちらは文字通りで、平安時代から桜の名所といわれていたらしい常陸桜川由来の、花と葉が共存するヤマザクラだろう。



【追記】

東京都公文書館の、デジタルアーカイブスで

上下蓮雀村井口新田一ノ宮村野崎村図

なる、これらの村絵図の集成図を見つけたので、その順序、方角を整理して

【再掲】境分水圦~牟礼村西端までの村絵図


とのページを作った。