2022年4月11日月曜日

【再掲】「仙川養水」を考える

 ■品川歴史館の…

企画展「品川用水」のパンフレット裏側に掲載されている「品川用水・三田用水 普通水利組合沿革の図」(以下「沿革図」)を眺めていて、未知の分水があるのに気が付いた。

境村の玉川上水からの取水圦から最初の分水である、「上仙川村/中仙川村/金子村/大町村/組合用水」と注記された分水(青矢印)は、現在でも「仙川用水」と呼ばれたり、あるいは「入間川用水」とも呼ばれる、よく知られている分水だが、そのすぐ下流にやや小ぶりな分水(赤矢印)が描かれている。

2022/02/18 撮影
青矢印の「上仙川村…組合用水」のすぐ下流に
「野川村々内/仙川用水口」と注記された分水(赤矢印)がある














 すでにその位置が特定できていた「下仙川村悪水吐口」

 【再掲】品川用水と三田用水の絵地図  参照

よりも上流にあるので、品川用水全体の中で、かなり上流部の分水といえる。

 ただ、パンフレットの画像では、注記がほとんど判読不可能だったので、前掲写真のとおり企画展で現物を確認することにしたのである。

■その前にまずは…

文献調査というわけで、

品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)

を読むと、以下の記述から、この分水の存在は確認できる。

今日品川用水本流となってゐる取入口より野川分水口迄の水路は、當初は仙川養水に続してゐたものであり従ってその開創は一段古いものである」p.17

(官費伏替の場所以外の他に)全く組合自費の普請箇處があった。上仙川分水*野川村分水口…が夫である。上仙川と野川の分水口は府中領の上仙川村・中仙川村・大町村・金子村使用の仙川用水の爲め存在するもので、前者は上仙川村字稲荷前に内法四寸四方・長三尺の圦樋、後者は野川村字北裏耕地に内法二寸四方・長六尺の圦樋が夫々設けられた。元來、仙川用水は品川用水の開創以前よりあったもので、境取入口より此處までは當初其の水路であった。従って品川用水は最初は此處から分水したものである。」p.52

 さらに、以下の記述から、分水の名称が判明する前に、その位置は、ほぼピンポイントで割り出すことができた。

〔正田飛行機〕工場の南裏大字新川に出ると、再び用水路は現はれ、民家の裏口に至って半ば掃溜化してゐる。其處に仙川用水の分水口がある。昔は新川分水口と云ひ、非常に嚴重に約定管理された處である。混凝土造りの樋口があり、今日の品川用水は此處迄通水されて仙川方面へ流れて行くのである。本流水路は此處で無雜作に並べられた砂俵に堰止められ断水されて仕舞ふ。

 新川の十字路を東へ折れて道路に沿ひ行く用水路は、これより全く水路敷のみとなる。國民學校の手前にある分水口**も敷石が崩れ、注意されないと見過す程荒廢してしまった。」(p.261)

*ただし、上掲の「沿革図」の、 上仙川分水口には官費工事の場所を示す「御普請所」と注記されている。

【補正】

**国会図書館のデジタル・ライブラリに

帝国市町村地図刊行会 編「東京府北多摩郡三鷹村土地宝典」帝国市町村地図刊行会/S14/刊

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186058

 があったので、そのp.94とp.98で確認したところ、國民學校の「手前」というのは誤りで「向こう」とするのが正しいことが判明した。

 この「國民學校」は、現在も「三鷹市立第一小学校」として存続している。そのため、ほぼピンポイントで位置を特定できるのである。

 【追記】

昭和22年の空中写真では、

現役だった入間川養水の水路は明瞭に読み取れる

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.34.18.452N35.40.44.975/zoom/12/?data=showa-22

旧・仙川養水の水路は学校周辺には見当たらないが、丸沼近くでは明瞭に読み取れる。  

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.34.23.961N35.40.33.316/zoom/11/?data=showa-22 

■ところで…

この「沿革史」の口絵写真。
















キャプションだけでは、上仙川、野川のどちらの分水口のそれなのかが判別できなかったのであるが、前記の本文と対照すると、下記のように解釈できるので「新川分水」の写真のようである。

『視察記』中の、新川分水の記述と整合するようである
 













 何本か立っている黒い杭状のものは、下図のような、水路側面の護岸用の板を支持していた杭の名残と思われる
M13 海軍による三田用水別所坂上水路補強工事地面

 ■ここまで…

特定できた情報などを地図に落とすと

2022/03/19改訂版


以上のようになるが、注目に値するのが、この野川分水口からの水の行方である。

 ベースにしているのが米国陸軍のAMSマップなので少しわかりにくいが、前記「土地宝典」の図(いわゆる公図を編集したもの。以下「宝典図」)では、明らかにこの水は「河川としての仙川」の源流部の丸沼(下図中央やや右)の少し上流部に落ちていることがわかる。



 なお、仙川の(かつての)水源は、地図中にある丸池と言われているのであるが、地形図で等高線を追うと、そこから北西方向に細流が削ったとみられる浅い川路があるし、昭和20年代半ばに開鑿された現在の仙川の上流部も、この川路にほぼ沿っている。

【追記】

丸沼は、上記空中写真と同時期のS22ころまでは残っていたらしい

「三鷹まるごと博物館」→「昔の写真を見る」
https://ecomuse.jp/historical-photos/
から「新川1」を選択

■つまるところ…

この分水が、旧・仙川養水と呼ばれたのは、当初は文字通り「河川としての仙川」に水を供給するための分水だったからだろう。

 その後、入間川養水の方が主力となった*後も、それを含めて、仙川用水とも呼ばれるようになったのは、単に入間川養水が上仙川村・中仙川村を灌漑するからではなく、あくまで、起源が「仙川という川のための用水」だったからではなかろうか。

*沿革図によれば
  上仙川分水口は、水積144坪(=平方寸)
  野川分水口 は、水積  10坪(同上)

 このこのあたり、三田上水→三田用水の「三田」の語源と通底しているようにも思われる。

【追記】

東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊 p.57 に

旧新川村新川宿 (…)で2筋に別れ,西南流する水路は入間川養水,東流するのが品川用水である。品川用水のできるまでは,この分岐点からやや 東南直距離凡そ700mの所にある勝淵神社前の丸池に水路が通じ,仙川養水となっていたのであるが,品川用水ができるとこの養水路は廃止されたものである。

と、されているが、「沿革図」と「宝典図」によれば、品川用水と仙川養水は、前者の開鑿後、というより、公図上、いわゆる青線・青道として水路が記載されていることからみて、いかにに早くとも地券交付のために公図が作成された明治初期までは、品川用水と共存していたことが疑いないのである。


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